ハースストーン Tips

A Note on the Hearth

ハースストーンプレイヤーの備忘録

ルール / モラル

私はこのnoteの新規投稿をチェックする度に、興味深い内容であればTwitterリツイートに所感を添えるという形でインプット、アウトプットを図っている。しかし、Twitterでのアウトプットは文字数の制限が大きく、それに伴って思考量も制限されるように感じることがしばしばあった。かといって記事にまとめるには十分なアイデアが浮かぶか怪しいという微妙なラインをしばらくさまよっていた。

この度投稿されたこの記事は、最近の私の興味にばっちりはまっており、つぶやき程度のアウトプットで終わらせるにはもったいないし、ある程度文章量を稼ぐこともできそうだったため、記事化に挑戦してみたいと思った。

 

 

行動に対する4つの制約

note内では、人間の行動は大別して法、規範、アーキテクチャ、市場によって制限されると述べられている。これらを、私がプレイしているメインゲームジャンルであるDCGに当てはめてみたい。

  • 法によって、外部ツールであるトラッカーの利用が認められている。このツールを快く思わないプレイヤーも散見されるが、法によって認められている以上他のプレイヤーによるトラッカーの利用を妨げることはできない。
  • 規範によって、環境に多様性を持たせようとする動きが起こる。現状この規範は法やアーキテクチャに比べて拘束力が弱いため、環境に対する不満の声が垂れ流されるにとどまっている。
  • アーキテクチャによって、運営の意図から大きく外れる戦術が禁止される。ナーフや制限、禁止カード化等の措置が当てはまる。
  • 市場によって、リミテッドモードの熟達速度が制限されている。参加費のないモードと異なり、対価の支払いによってプレイできる回数に制限がかかるため、環境解明や練度の蓄積が比較的遅くなっている。

 

確かにこれら4つの制約要素はDCGにおいても機能していそうだ。次は少し飛んで、note内でも書かれているように法、規範(、アーキテクチャ)間の関係性について私の考えを書き進めてみたい。

 

ルール、モラル、システム的禁止

あるゲームのユーザーで構成されたコミュニティを見ていると、しばしばその民度について話題に上がることが観測される。民度とは、コミュニティ構成員の持つモラルと捉えて差し支えないだろう。当人にとって何か気にくわないことがあった時、議論ではなく暴言など非論理的な解決策に走るユーザーが現れた場合に、「民度が低い」などという使われ方をするケースが多いように思う。特定のユーザーの素行が、そのままコミュニティ全体のモラリティにまで拡大しているケースも多々あるのは興味深い。連帯責任的な考え方だろうか。

問題に対して、暴言までいかず議論によって解決が図られることもある。私はこれをいい傾向だと考える。しかし、「決まっているだろう、言われなければ分からないのか。」というように、特定のモラリティを持っていないことを非難し、議論さえも無意味であると否定するユーザーが現れることがある。

この動きは、老害的でかなり危険だと思っている。当人にとっては、「決まって」おらず、「言われなければ分からない」から議論によって折り合いをつけようとしているのだ。それを第三者が藪から棒に独善的な価値観を押しつけるのは、何ら解決になっていない。モラルとは、常識と似たような概念で、個人が囲まれてきた環境に大きく依存して形成される。個人が持つモラルとは、皆が一般に等しく持つわけではなく、個人の周囲でしか通用しないいわば属性のようなものなのだ。「常識がない」と言うことがあるが、言われた当人は常識がないわけではない。発話者と当人との間に常識のずれがあるというのがより正確な認識である。このずれをすり合わせて一般化していくことで、普遍的なモラルを身につけていくことができる。第三者が話し合いを遮って突然特定のモラルを押しつけるのは、非常に粗雑な行為であることがわかるだろうか。それにとどまらず、この第三者が持つモラルとはアップデート前の古いモデルである可能性があり、変わるべきなのはこのユーザーの持つものであるとさえ言えるような気がしている。

 

ただ、議論は必ずしも答えが導かれるものではない。平行線を辿ったり、水掛け論に帰着したりして、結論が出ない場合もある。この際、強引に答えを出す手段が法やアーキテクチャだ。

私は、アーキテクチャによって解決を図ることをひどく嫌っている。アーキテクチャによって縛ることは、怒鳴られなければ気づかない、殴られなければ分からない子供に強引な解決策を講じるのと似たようなものを感じてしまう。モラリティの議論に至るような、精神的にある程度成熟したユーザーが構成するコミュニティで、アーキテクチャによる制裁を下すことに馬鹿馬鹿しささえ感じる。

もう一つの法も、あまり好きな解決策ではない。学校で起きた子供同士の喧嘩に、先生の仲裁を仰いでいるような感覚がある。その場を丸く収めることはできるが、果たして両者は本当に納得しているのだろうか。

 

感想

一通り書いてみたところ、私はかなり規範に寄った考え方を持っていることが分かった。しかし、私はnoteの中で書かれているようにFPSプレイヤー然として自治に傾倒しているわけではないし、元はTCGプレイヤーということもあり法の制約内では規範に縛られず何をしてもいいという考えを持っている。やはり、規範が持ち出されるということは誰かが害を被っており、被害者に有利な、つまり恣意的な制約を課そうとしている可能性を感じる。ここで被害者は救済されるべき、みたいな正義感で規範を適用すれば、また別の被害者が出ることだろう。

私は、基本的に現状をパレート最適であると見ている。そうでない可能性も常々検討しているが、反証がかなり難しい。

もしそうなのであれば、変えるべきなのは全体に対する制約ではなく自身の持つ規範なのではないだろうか。もしくは属するコミュニティを変更し、異なるルールが適用されているところに身を置く手もある。いずれにせよ、自分が動かなければ何も変わることはない。