ハースストーン Tips

A Note on the Hearth

ハースストーンプレイヤーの備忘録

アブストラクトゲーム

DCGを触り始めてから長い間疑問に思っていることがある。それは「カードゲームは運ゲーだ」みたいな主張がさも新事実が発覚したかのように声高らかに披露される現象が頻繁に発生することだ。カードゲームは元来運ゲーであり、それは改めて周知しなけらばならないような事柄ではない。興味深いのは、運要素について同一のプレイヤーが定期的に全く同じ内容の悪態を吐くケースが少なくないということだ。運ゲーでないと思いたいが運ゲーである現実に度々直面し葛藤が生じてしまっているのだろうか。

今回は、このような事柄について考えていきたいと思う。

 

アブストラクトゲームという概念を知っているだろうか。チェスや囲碁のようなゲームが属するジャンルのことだ。特徴として、完全情報ゲームである、つまり全てのプレイヤーに等しく情報が与えられている事が挙げられる。完全情報ゲームの中でも偶然性を持たないもののことを特にアブストラクトゲームと呼ぶ。

対立概念として不完全情報ゲームがあり、これはプレイヤーに与えられた情報間に非対称性が見られるゲームのことだ。カードゲームで言えば、自分の手札は全て把握できるが相手の手札は見ることができないため、プレイヤー間に情報の非対称性があり、これが駆け引きの要素を生み出している。さらに山札の順番を最たる例とする偶然性があり、場合によってはそれが結果を左右する。

まずは、これらの概念を知っておく必要がある。そうすることで、自分がアブストラクトゲームに向いているのか、そうでないゲームを楽しめるのか判断することが可能になる。

これらのニーズの違いは容易に想像がつくだろう。能力主義のゲームが前者で、娯楽程度に嗜みたいカジュアル層も楽しめるのが後者だ。完全に能力依存のゲームが一般にウケないということは、そこかしこで言われている。

 

冒頭の問題は、カードゲームをアブストラクトゲームに近い位置にジャンル分けした場合に生じてしまうものだと考えている。なぜこのような現象が起きるのだろうか。

カードゲームでは、プレイスタイルによっては各プレイヤーの持つ情報が対称に近い状況を作り上げることができる。最も簡単な方法は、クリーチャーを主戦力として戦うデッキを選択することだ。

クリーチャーで戦うためには、それを戦場に出す必要がある。ほとんどのクリーチャーはその後召還酔いを経てアクティブな状態へと切り替わる。使用するカードを予め公開してから攻撃に移るまでの猶予によって、幾ばくかの情報対称性が生まれる。冒頭のような悪態を吐くプレイヤーには、クリーチャーデッキを好んで使うプレイヤーが多いと感じているが、恐らく原因はこのあたりにありそうだ。

クリーチャーデッキの使用者は、カウンターストラテジーとして用意されているコントロールデッキに対してネガティブな印象を抱きやすい。コントロールデッキにはこの記事に書かれているような特徴があり、勝利手段のプレイまで凌ぐ方法は除去やカウンターなどのスペル使用が主である。スペルには採用のリスクとして効果が局所的に設定されている。プレイアブルであれば及第点のクリーチャーと比較して、スペルは相手の脅威を的確に取り除けるものを引いていなければならない。クリーチャーデッキの使用者がコントロールデッキを非難するためのそれっぽい理由を繕うとき、これらの特徴が槍玉に挙げられやすい。つまり、特定のカード、すなわち「遅いゲームの勝ち手段」への依存度が高く、さらに引きへの依存度も高いといった内容だ。

このような特徴は、クリーチャーが攻守共に役割を担え、定着すれば永続クロックとしてアドバンテージを稼ぎ続けることと引き替えに情報アドバンテージを失っているのと同様に、汎用性と永続性を犠牲にして得るアドバンテージである。どちらが正しいというものでもない。それにも関わらず、カウンターデッキを嫌うあまり盤面のやり取りありきだとか、偶然性に依拠するデッキがしょうもないだとか、ゲームに対する歪んだ認知を生んでしまっている。

 

昔はもっと盤面を使っていただとか、偶然性が低かった、だから今より楽しかったなどという主張もある。そのプレイヤーがそう感じていたことは否定しないが、実際の環境がその印象に即していたかどうかは別の問題である。

ゲームはもちろん時代に合わせて変化しているが、変化しているのはプレイヤー自身もまた同じだ。属しているレート帯も異なれば、自身の習熟度も異なる。偶然性に対して不快感を抱きやすいのは、ゲームに飽きているとき、あるいはゲームの練度が上がったときが多い。

強く惹きつけられる魅力があれば、偶然性によりもたらされる結果など些細なものだ。人の視点がフラットであることは稀で、ネガティブな部分に目が向くというのはそのような方向の先入観に引っ張られている。

ゲームの習熟度が低いときは、偶然性は自分の勝利に味方する。この段階では理解が浅いため、勝因を正しく分析することは難しいだろう。ある程度習熟し、自分の力で結果を得られるようになると、味方であった偶然性が自分に牙を剝くケースが出てくる。理解度が上がり偶然性の存在をはっきり知覚できるようになった頃には、それは既に敵になっている。よって、一意に不要なものとして認識してしまう。

 

これには少しばかり裏付けがある。実装前はもてはやされた旧環境再現モードが、実装後間もなく見向きもされなくなったゲームの存在だ。環境は既に研究されていたためメタの固定化が早く、環境はコンボデッキによって支配された。「偶然性が減り運ゲーがましになる」と期待されていたゲーム体験も蓋を開ければ彼らにとってそれほど面白く感じないという結果になった。このモードには別の欠陥がある、という主張もあるが、これは面白く感じない要素がいくつかあっても十分楽しめるということを物語っている。結局はユーザーがどこまで譲歩できるか、どう捉えるかに依る。

 

受けの広い作品を作るためには、パレート最適点を見つける必要がある。恐らくこれはかなり困難で、開発の選んだ点が必ず正しいわけでもなければ、開発と反対の点を主張するユーザーが正しいわけでもない。膨大な要素を俯瞰する必要があり、主体となっている我々ユーザーには到底及ばないところにあるだろう。

 

この文章は、私の見聞に基づいて書き進めた。ターゲットはぼんやりしているし、ターゲット層がこの記事を読むとは思えないのでざっくばらんに書いたつもりだが、何かに訴求したいわけではなく、頭の中の抽象的な思考を文字にしてみたまでである。普段と違って文字に起こすのに苦労したし、切り貼りしながら作成したため接続が上手くない箇所もある。これからのゲーム体験の中で、そのあたりの彩度が上がっていくのが楽しみだ。