ハースストーン Tips

A Note on the Hearth

ハースストーンプレイヤーの備忘録

12/7,8 イベント戦 スタンBo1

戦績

ディミーアローグ

7-2

3-3

 

今回増減

+400ゴールド、(重複2)

 

通算増減

3200ゴールド、レア17枚(重複4)

 

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今回初めてレア報酬が2枚ともだぶってしまった。

資産の集まりを実感できて嬉しい反面、イベント戦のうまみが着実に薄れていることを実感するので、そろそろ遊ぶモードを切り替えることを検討したい。

12/5,6 イベント戦 スタンBo1

戦績

 

赤単

2-3

 

ディミーアローグ

7-2

7-2

 

今回増減

+800ゴールド、レア4枚

 

通算増減

+2800ゴールド、レア17枚(重複2)

 

前回のイベント戦挑戦のあと、新たにグルールアドベンチャーとディミーアローグを作り、Bo3のランク戦をプレイしていた。

グルールアドベンチャーは攻撃的なミッドレンジデッキで、開発されてしばらく経つ今なお環境の頂点を争えるほどのポテンシャルを備えている。

実際の感触も、パワーが高く非常に好ましかった。しかし、クリーチャー主体のデッキにありがちな単調なゲーム展開に辟易した私は、一時このデッキとともに2大巨頭を築いていたディミーアローグに刺激を求めて着手することにした。

 

ディミーアローグはビートコントロールと呼ばれるデッキタイプに属する。これは、展開したクリーチャーを妨害札で相手の除去から守り、ビートダウンでフィニッシュを目指す型だ。

ローグの場合は、除去で相手の攻め手をいなすパターン、クロックでライフを削りきるパターン、切削でLOを目指すパターンがある。相手のデッキの速度、及び自分と相手両者の引きによってプランが変わる。多角的に戦える感じがとても面白いデッキだ。

 

除去は、基本的にインスタントスペルを使って行う。相手のターンにアクションを起こせるということは、すなわち後出しじゃんけんを挑むことができるということだ。デッキには、瞬速を持つクリーチャーも入っている。相手がどう動くかを窺ってから展開、除去あるいは打ち消しを選べるというのは、ターン制のカードゲームにおいて大きなアドバンテージを生むだろう。

 

ライフを削りきるプランは、LOと同時に狙う。

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今環境には、飛行クリーチャー、到達持ちクリーチャーが比較的少ないと思う。そのため、飛行クロックの通りが非常にいい。そして、これらでダメージを稼いだとき、ついでに相手のライブラリーも落とすことができる。そのため、相手の墓地を肥やし、クロックを上げると同時にLOも進め、通りのいい方を勝利手段として選択する。

 

このゲームは、ブロック側がコンバット先を選択することができるので、防御側がいくらか優位に立てるゲームだ。LOプランは、ビートダウンと違いブロッカーを用意しやすいため、防御しながら勝ちにいくことができる。ライフレースに勝てなさそうなときは、ひたすら守りながら山札差をつけていくプランを選ぶことが多い。

 

取れるプランも多いし、なにより相手によって立ち回りが変わるというのが飽きない。性に合っているというのも大きいかもしれないが、イベント戦を回し始めてからの勝率は非常によい。

Bo3でサイドボード戦が絡んでくると、墓地対策によって苦しい戦いが多くなる。メタカードが十分でないBo1の方が戦績がよくなるかもしれない。

まだこのデッキを握り始めて短いため、理解が深まったらより詳しく書きたいと思う。

ちょっと一息 =Gravity=

BUMP OF CHICKEN 『Gravity』

 

両A面シングル曲『Gravity』は小説のような美しい曲で、だから噛み砕くのに長い時間がかかった。未だに消化できていない。しかし、ようやく喉もとを通り過ぎたかと思われる今、歴代の曲の中でもトップレベルに強い思いを私はこの曲に対して抱いている。せっかくなので諸々を書きとめておきたい。

 

 

対訳

ある日の家路、いつものように僕らは少しでも長く一緒にいたくてだらだらしている。

帰らなければいけない時間から目を背けていたが、17時のサイレンや、目に映る蝙蝠に否が応でも時刻を知らされてしまう。帰らなければという雑念をそれらと一緒に振り払おうと口を開きかけたが、ふと止まってしまった。

君の影の動きを見て、なんだか君の存在を泣きそうなほど大切に思ったから。

 

何とも形容しがたい思いが君に対して湧きあがる。なんとか言葉にしようとするが、そんな僕を尻目に君は無邪気に言葉を紡ぐ。こんな今も悪くはないと、いつも喉もとまで出かけた言葉をしまってしまう。笑顔のままで。

 

心の中で思いを巡らせる。

いつか、離ればなれになって会えなくなる日が来るかもしれない。

では、また会ったとき今と同じように心を通わせることはできるのだろうか。

大人びた態度をとったり、わざと尖ってみせたりして気を引こうとしていた。

傷つけてしまったときは誤魔化して、気まずくなった。

そういう全部を愛しいと思えるくらい、僕らは互いを信じることができていた。

一緒につられてくしゃみをしてしまうのを可笑しく思うとともに、刹那泣きそうなほど愛しくなる。

 

時間が過ぎて今が風化しても、君がここにいることは忘れない。

傷ついても弱さを見せず立ち直って、謝る代わりに笑って。

儚くか細い君の指の冷たさがずっと残っている。

 

場面は再び家路に戻る。

依然として言葉にならない思いは胸の奥で燻っている。

だけど僕は君と同じように、今のままで無垢な言葉を紡ごうと思う。

さあ、「またね」とお互いに手を振り、帰ろう。

 

どんな日であろうと、ちゃんと明日が来てほしい。

一緒ではなく、一人だったとしても、「明日」の中に君がいてほしい。

 

所感

いつものことながら描写が抽象的で、多様な解釈ができそうな曲になっている。

現時点での私の解釈を書き起こしたが、確信の持てない部分があまりに多い。

 

BMUPの楽曲の中には、矛盾するような表現が随所で現れる。

・沈黙が騒ぐ

・暖かくて寒気がする

・終わりにしたら始まる

どれも反対の描写が並べられているが、かといって意味を損ねることのない巧みな強調表現となっている。これは今回の『Gravity』にもちりばめられている。

<帰ろうとしない帰り道>

歌い出しからまさに矛盾している。

しかし、理解に苦しむようなことはなく、不思議とすっと頭に入ってくるような、自然な表現に感じさせられる。誰もが経験したことがあるような、普遍的な出来事だからだろう。

<指の冷たさが/火傷みたいに残ってる>

間奏前の非常に印象的な部分に置かれた印象的なフレーズだ。特徴的な描写にも関わらずニュアンスが伝わってくる気がするのはなぜだろう。

 

この曲は、一目見た感じ登場人物は男女二人組である可能性が高い。

 

<いつの日か どっちかが遠くに行ったりして>

この言い回しが二人組の物語であると思わせる。

 

<視界の隅っこ ほとんど外 君が鼻をすすった>

気恥ずかしさから目を合わせずにいる二人組を想起させる表現だ。

 

<触ったら消えてしまいそうな 細い指の冷たさ>

儚さを思わせる女性的な表現に感じられる。

 

すると、この曲はラブソングであるということになる。

しかし、私はBUMPがラブソングなどという陳腐なものをはたして書くのだろうかと未だに思っている。恐らく、男女の関係に限定せず、儚くも固い、大切な人間関係を歌っているのだろうと推察する。懐が深く、共感しやすい楽曲だ。

 

ここからは、気になった表現をいくつか挙げていきたい。

 

<君の影の 君らしい揺れ方を>

とても詩的な表現だと思う。リアルで生々しい。

影の動きを描写する表現は初めて見た気がする。

 

<見つけた言葉いくつ 繋げたって遠ざかる>

この歌で最も気に入ったフレーズだ。作詞者の謙虚さと向上心が感じられる。

私たちは、知っている言葉が限られているにも関わらず日本語を使いこなせる気になっている。しかし、人ひとりの語彙など高が知れている。私たちの使っている日本語は、言語のほんの一部に過ぎない。

それを、詞を書くことを生業としている人が感じているのだ。言葉のインプット、アウトプット量は並外れているにも関わらず。未だに自身の表現力に満足していない姿勢には素直に感服する。

 

<見えない涙拭って 謝るように笑って>

とても強い信頼関係にある二人だからこそできる振る舞いだと思う。

涙を見せないのも、安直に謝らないのも、相手を思いやってこそのことだろう。そして恐らくお互いに相手の気持ちを察している。美しい関係性だと思う。

 

<そんなの全て飛び越えて 子供のまま笑って>

<せーので全て飛び越えて 僕らのまま笑って>

サビでありがちな同じ歌詞の繰り返しかと思いきや、わずかな単語の置き換えで意味が全く異なるものになっている。作詞家の業を見た気がする。

1サビでは、僕の気持ちも知らずに無邪気に振る舞う君の描写になっている。

一方、大サビでは僕も含めた二人の行動を描写している。僕が君の姿を見て吹っ切れたことを暗示する表現だと思っている。

 

<笑顔のまま またねって>

<またね>の言葉選びが秀逸だと感じる。

僕は、明日一緒じゃなくても明日に君がいてくれればそれでいい、という境地まで至っている。にも関わらず、帰路で「また会おうね」という別れ方をしているのがたまらなく切ない。泣きそうになった。

デモコン理論、及びその応用

カードゲームには、ゲームの理解を促してくれる理論がある。

例えばマナカーブ理論だ。少ないドロー枚数で手札に引き込んでいる必要があるため、早いターンでプレイしたい低マナのカードは多めに採用すべき。対してゲーム後半でプレイしたい重いカードは、序盤に引いてもマナが足りず手札で腐ることに加え、プレイターンまでに経たターン開始時ドローで引き込んでいる確率が高いため、少なめに採用すべきであるという考え方だ。この理論によって、構築段階でゲーム中の手札事故率に効果的に干渉することが可能になっている。

 

今回はその理論の中のひとつである、デモコン理論を紹介したいと思う。知っておくとゲーム中に活用できる場面がしばしば出てくる理論だ。

 

 

デモコン理論

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デモコン理論の名前の由来は、MTGのこのカード名から来ている。

このカードの効果は、カード名をひとつ宣言し、自分の山札の上から6枚を墓地に置く。それから宣言したカードが出るまで山札をめくり、そのカードを手札に加え残りを追放するというものだ。

このカードのデザインは、黒マナ1と山札6枚+αをコストに、ほしいカードを手札に加えるというコンセプトになっている。指名したカードが6枚の中に全て含まれていたら、山札がなくなり即座に負けるリスクがある。このコストが果たしてデメリットなのかということに焦点を当てたとき、デモコン理論ではそうではないと結論づけられた。

ゲーム終了時、多くの場合山札が残った状態で決着している。デモコンのコストとして支払われた山札のカードは、山札の内容のランダム性から、これから引くはずだったカードではなく、引かずに終わるはずだったカードとして発想を転換することができる。トップから落とされようがボトムから落とされようが、順序がランダムなのだから同じだろうということだ。

 

しかし、この理論を適用するにはいくつか条件がある。

例えば、山札を落とす前に占術などでトップを固定していないことが必要になる。山札のランダム性を前提とした理論なので、落ちるカードが固定されているシチュエーションでは破綻してしまう。

特定のキーカードに依存したデッキでないことも条件として挙げられる。特定のカードが山札からなくなった瞬間に勝ち筋がなくなるようなデッキでは、山札を落とす行為には大きなリスクが伴う。

山札を引ききらないことも前提として必要になる。落ちたカード内容にゲーム展開が左右されないのは、山札が十分残っている状態だけである。厳密には、落とした枚数、つまり切削した枚数が残り山札枚数を上回った時点で、差分だけ切削の影響を受けることとなる。

 

ミルについて

ここでデモコン理論を紹介したのは、この理論の普及が狙いではない。この理論をミル戦術の解釈に応用できることを確認したかったのだ。

 

ミルデッキは、しばしば不快な戦術をとるデッキとして認識される。これから引くはずだったカードを尽く落とし、ゲームプランを妨害してくるように感じることから不快に思ってしまうのだろう。あるいは、その出目によって切削行為の強さが変わってしまうことから、ランダム性に依存した戦略だと感じてしまうのだろうか。

 

いずれの解釈も、デモコン理論を応用することで見方を変えることができる。

山札の無作為性を根拠として切削札がそれらであった必然性がないと考え、「山札をx枚切削された」という事実にのみ着目するのである。ゲーム終了時まで手札に引き込めず、山札に眠っているはずだったカードを事前に公開した、という解釈に近いと思う。

読んでいるうちに察したプレイヤーもいることと思うが、中途半端な切削行為は相手に情報アドバンテージを与える点で利敵行為であるという解釈もできる。切削によってデッキ圧縮が進んでいくにつれて、トップデッキの確度も上がっていくのである。しかしこれはミルデッキのプレイヤー側にとっても同じで、相手のリストが分かっている場合、切削されたカードからそのゲーム中にプレイされることのない札を予め予測し、無駄のないプランニングをすることが可能になる。

その程度については場合によるところが大きいが、情報アドバンテージに関しては両プレイヤーとも恩恵を享受できると言える。

 

切削された内容が意味を持つのは、デッキを引ききった時、すなわち負ける直前が最も分かりやすい。底まで掘りきってしまった場合は、ゲーム終了時まで引かずに底で眠っているだろうカードとの置き換えができないため、初めて切削された中身が注目されうる。

 

では、ミルデッキが相手の山札を削りきり、LOで勝利を決めたときのみ特別不快なデッキへと変貌するのかというと、そうではないと思っている。

LOによって負けた場合、切削された札がゲーム中にプレイできなかった札となる。このプレイヤーは、切削札がもっと違っていて、あのカードが手札に来ていれば勝機はあったかもしれない、などと反省するだろう。これは、ある状況と酷似している。アグロデッキに為す術無く轢かれたときだ。

アグロデッキに速攻戦術で負けた場合も、決着時の残りの山札は全て死に札となる。もっと序盤用の除去札を引き込めていればあるいは、などとゲームを振り返ることだろう。LOと同じだ。

ミルデッキもアグロデッキも、相手の札を全て受けきる前に倒してしまうことを目標に戦うデッキであるという点で同じ性質を持つデッキと言える。異なるのは、山札をなくすことを勝利条件とするか、ライフを削ることを勝ち筋とするかという点だ。

この勝利条件の違いで、戦術にも差が出てくる。LOという勝ち筋は主流ではないため、切削するための専用カードが刷られなければ戦うことができない。専用カードの種類は大抵のゲームでさほど多くないので、デッキの余白はこれらを引き込むあるいは守る、もしくはLOが完成するまでライフを守るためのカードが多く積まれる。その結果、切削で能動的に勝ちにいくデッキにも関わらずコントロールデッキやコンボデッキの性質を持つデッキとなる。代わりに、盤面での戦闘を介さないため妨害手段が極めて限定的で、戦術の通りがいい。攻めるデッキの中で、遅いデッキやコンボデッキに強いタイプと言える。

対して、アグロデッキは小型を主戦力に序盤から展開し、盤面からの打点でライフを詰めていく戦術をとる。チュートリアルで説明されるほど王道な戦術であり、故に対策も容易である。ブロッカーや除去によってボードからの打点を阻止するか、回復でダメージを打ち消していくのがメジャーな対抗手段だ。アグロ側は、受け側の態勢が整う前にライフを削りきることを目標にする。

 

まとめ

デモコン理論は、山札を落とすことに対する過大評価を是正してくれる理論だ。

私はこれをミル戦術にも応用できると思っている。

 

カードゲームでは、理想的な環境作りの一環として、メタの多様性が謳われることが多い。その一方で、気にくわない不快なデッキには容赦なく当たり、削除を促す意見まで散見される。私は、この否定的な考えはかなり主観的だと思っており、握るデッキを変えたり、そのデッキに対する理解を深めることでかなり改善されるケースが多いだろうと考えている。

本当に多様性を望むなら、好まないデッキを消すことを考えるより先に、視点を変えてみる事が必要なのではないだろうかと思う。

11/10~15 イベント戦 スタン Bo1

残念ながら久しく更新できなかった。

もしかしたら抜けがあるかもしれないが、モチベーション維持のための記録なので大雑把にいこうと思う。

 

戦績

 

7-2

 

3-3

 

6-3

 

今回増減

+700ゴールド、レア2枚(重複2)

 

通算増減

+2000ゴールド、レア13枚(重複2)

 

資産面からずっと渋ってきた新デッキ作成をついに決意し、しばらくTier1に君臨し続けているグルールアドベンチャーを手にした。

慣れない新デッキである上に、サイドボードも用意しBo3用のチューニングとなっているため、しばらくBo1のイベント戦は離れることになると思う。

グルールに慣れてきた頃に、Bo3のイベント戦に参入するか、引き続きBo1のイベント戦に潜るかを考えたい。

ネガキャン

私は、ネガキャンじみた愚痴に関して恐らくひどく狭量だ。折に触れて公言してもいる。そのせいで、周囲とのネガキャンの認識の差違によって話が噛み合わなくなることが出てきた。

ここで私のネガキャンに対する認識を明らかにしておくことで、理解をすり合わせたいという狙いのもと書いている。ネガキャンに対するネガキャンのような記事になると思うので、ネガティブな内容が苦手な方は申し訳ないがここから先は読まないほうがいいかもしれない。

 

 

私のネガキャンに対する認識

ネガキャンすることを否定するつもりは全くないが、個人的にネガキャンに対する印象は非常に悪い。

自分の思うとおりに動かないゲームに対して、不満がわき出ることは誰しもあるだろう。私もある。

ゲームで出てきた不満は自分の中で昇華すべきで、それができないのなら他人の目にネガティブワードを晒す前にゲームから離れるべきだと思っている。ただ、これは身も蓋もない考えで、自分で昇華できないからこそわざわざ人前で声高に愚痴を吐くのだろう。それによってゲームデザイナーにフィードバックが行くわけでもなく、ゲームを純粋に楽しんでいるプレイヤーが不愉快な思いをしてしまうことに納得がいかないのだ。

 

放課後、学校の教室が自習室として開放されていた経験はないだろうか。試験前は特に、必死になって自学する生徒でいっぱいになる。当然私語は禁止。なぜなら、学習に集中している生徒の邪魔になるからである。隣の友人に質問することさえ憚られるほどぴりぴりとした重い沈黙だ。

しかし、そんな中でもマナーを弁えず話し声をあげてしまう生徒たちもいる。当然顰蹙を買う。教師が現れ異端者は追い出される。

私は、イヤホンをつけながらでも勉強できるタイプで、話し声やテレビの音程度の騒音であれば全く支障なく集中することができる。だから、物音に異様に神経質になっている教室の雰囲気に違和感を感じるし、話し声をあげる生徒のことも鬱陶しいとは思わない。だが、静かな状態でないと集中が妨げられてしまう生徒がいる以上、彼らが守られるべきであることは理解しており、私が教室を学習の場として使う事はあまりない。

 

snsで愚痴を吐くことは、教室で話し声をあげる行為によく似ていると思っている。異なる点は、ルールとなる教師がいないことだろうか。生徒が未熟者として扱われる学校と比べ、snsの世界はユーザーの振る舞い方に自由が許されている。

しかし、だからといって思うように勝手に振る舞っていい訳ではない。暗黙の了解ながらマナーやエチケットは存在し、意識下か無意識か私たちはそれを守りながら思考を投下しているはずだ。

私もゲームに対して少なからず不満に思うことはあるが、他の生徒の学習の妨げにならないよう、学校を出てから話し声をあげるようにしている。

 

私はこのような考え方を持っているため、万人の目に触れるsnsに愚痴を書き込む必要性について疑問を感じる。

 

TPO

私の主張は大方予想がついたかもしれないが、コミュニティにネガティブワードは必要なく、ポジるユーザーのみで構成される世界こそ平和で素晴らしい、というようなことを言いたいわけではない。人の感性は千差万別で、私が好きなものを嫌う人がいる可能性があることをよく知っている。ただ、それを好きな人が近くにいる状態で、それを批判する必要はあるのだろうか。ぶどうを美味しそうに食べている人に聞こえる声で、そんな不味い食べ物食べていないでみかんを食べた方がいい、などと言ったとして、相手はどう思うだろう。

人は、少なからず他者の感情に共感する性質がある。嬉しそうな人が近くにいれば自分もなんだか嬉しくなるし、悲しそうな人がいれば一緒に悲しい気持ちになるだろう。同じように、否定的な感情も伝播してしまうものなのだ。どこかで鬱憤を晴らすために愚痴るのだろうが、その感情が伝播した相手もそのやり場に困ってしまうことになる。

 

だから、鬱憤を晴らす場所はよく弁える必要がある。私が見るゲーム配信者の中には、自分のチャンネルをはけ口として使っている人もいるが、これはかなりいいやり方だろう。配信には、配信者と似たような考え方を持ち、共感できる視聴者がつくことが多い。ここなら、思い切り愚痴を吐いても視聴者は受け止め、理解し、共感してくれることだろう。万が一考えを異にする視聴者がいた場合は、ブラウザバックしてもらえばいい。snsとは違い、配信では興味のない情報まで飛び込んでくるということはほとんどない。

配信環境が整っていなくとも、身近な人に聞いてもらえばいい。自分をよく知ってくれている人であれば、どういう思考プロセスでそういう考えに至ったのか、きちんと把握した上でしっかり共感してくれることだろう。

 

私が今やっているように、ブログを使うのもひとつの手だ。ブログにまでわざわざアクセスするような人はかなり限られており、そのような人は恐らくタイトルなどから記事の内容をくみ取り、目的意識を持ってブログに訪れる人だろう。ここまでで、見たくない人にまで記事の内容が届いてしまうケースはかなり減っていることと思う。

ただ、自分では昇華しきれないほどの不満を抱えたプレイヤーが、わざわざブログを開き、タイトルをこしらえ、本文を殴り書きするほどの熱量は持ち合わせていないだろうと思う。形ばかりの建設的な考えとしてここに置いておく。

余談だが、このブログはもともと私の友人にカードゲームを教える際のアドバイスの保管庫として開設された。リアルタイムで教えていたところ、友人は自分が何を聞きたいのかもまとまらず、私も1ゲーム中に多くのことを教えすぎていたようだった。これでは非効率的だと思い、友人が必要な時に自分のペースで学べるよう、私のアドバイスを置いておく場所だったのである。言い換えれば、理解の遅い初心者に対する私の鬱憤のはけ口である。今でも私が利用しているほど、非常に重宝している。

 

まとめ

私は、ネガキャンじみた愚痴を自分の耳に入れたくないほど忌み嫌っているわけではない。しかし、それを大きな声で吐き出すことによって萎縮してしまう人も中にはいるだろう。そういう人たちが不憫だし、自分もそういった思いはあまりしたくないので、愚痴を吐くときはTPOを弁えるべきだと思っている。

これはあくまで私の考えで、これを読んだ全員に同じことをしてほしいと思っているわけではない。私があまりに愚痴に辟易したために扱いが雑になってしまい、周囲の人を萎縮させてはいけないと思い、思考の言語化の練習も兼ねて文字起こししたまでである。