カードゲームが「上手い」
勉学において成績優秀な人を褒めるとき、どのような言葉を使うだろうか。
「彼は勉強ができる」といった言葉で賞賛することがほとんどだろう。
学校での勉強は、多くが知識を蓄えるものであり、試験はその知識が身についているかを確認するものである。思考力を問うものは少ない。
正解が用意されており、それにたどり着くために技術、能力は特段要求されないために、「上手い」という言葉は相応しくないのだ。
では、「上手い」という言葉が使われるのはどういう事柄だろうか。
「字が上手い」「絵が上手い」「作文が上手い」
知識というよりは、センスや能力が問われるものが多い。
字を知っているだけでは上手な字は書けないし、語彙が豊富でも上手な文章が書けるわけではない。評価も受け手によって変化するだろう。面白い文章が求められるかもしれないし、叙情的、あるいは分かりやすい文章が好まれるかもしれない。
これを踏まえて以降考え進めていきたい。
カードゲームでは、「上手」「下手」という評価基準を多く目にする。
本来の意味で使われている訳ではないのかもしれないが、私にはいささか違和感が感じられる表現である。かくいう私も便宜的に使っているが。
なぜかというと、私にとってカードゲームとは技術ではなく知識量が試されるものだからだ。これは、私がカードゲームを続ける最大のモチベーションだ。
手札という与えられた選択肢は、プレイヤーの能力レベルによって制限されプレイできないということは起こりえない。分岐を作るのは、自分が決めたい動きあるいは相手が決めたいと思っている動きを知っているかどうかである。
知識が足りずに不本意な結果に終わった時、それを反省するのは至極簡単だ。足りなかった知識を身につければいい。
そういう意味では、少なくとも中学校くらいまでの勉強は易しい。結果が振るわない場合は、できないのではなく興味がない、やる気がない、学習時間が足りていないのいずれかに当てはまるのではないかと思う。
対して、能力や技術面で高いパフォーマンスを発揮するには途方もない時間と努力、あるいは持ち前のセンスが要求される。
文字は誰しも至るところで書いていることと思うが、字体は一向に変化しないことだろう。絵に関しても並大抵の努力で身につく、あるいは上達する分野ではないことは周知のことだろうと思う。
私はそこまで根気があるわけではないが努力型の人間なので、進捗を逐一評価してくれる知識勝負の場を好む傾向にある。カードゲームは、この条件に合致するゲームのひとつだった。
カードゲームにおいて大事なのは、必ずしもミスを犯さずに勝ちをとることではない。
知識の不足に気付くためには、ミスを犯すことは必要である。
何が大事かといえば百人百様ではあるだろうが、私はミスに気づきそれを知識として蓄えることに重きを置いている。
以前、カードゲームで長考することは苦手だと書いた覚えがあるが、その理由はここにある。知らないものをいくら考えても出てこず、テスト後半寝て過ごすことになった経験はないだろうか。
私はテスト中の姿勢にではなく、採点済みのテストが返ってきたあとの間違い直しに価値を置いているのだ。カードゲームでは採点も自分でしなければならないので、正確には解き終わったあとの見直しか。
その記事の中で、長考について否定したわけではないことも覚えている。
私にとってカードゲームは知識ゲーであると書いたが、実際にはそれだけではない。「上手い」と評価することのできる、センスが表れる場面が要所にある。
私が知識と呼ぶのは、100%正解だと言える解答がある問題における答えへのたどり着き方である。
例えば、ローグには回復がないためライフレースで優位に立てばそうそう逆転されないといった具合だ。
しかし、知識で完全武装したようなプレイヤーが集まっても答えがひとつにまとまらないような、割り切ることのできない選択もカードゲームにはある。これは、選択肢の勝率が僅差なのかもしれないし、差はついているがそれまでのゲーム展開等の要因でバイアスのかかりやすいシチュエーションなのかもしれない。昨今発見等のRNG要素によって正解はより分かりづらくなっている。
こういった場面では、与えられた時間をいっぱいまで使って考え、僅かな差を敏感に感じ取ることは無駄にならないだろう。
思うように勝率が出ないとき、ゲームが下手なのではないかと思ってしまうことがあるだろうが、それは単に試行回数が足りていないだけである。デッキ選びや構築などゲーム外の介入余地も含めて正しい選択をしているなら、数をこなせば収束し勝ち越しの結果となってそれが明らかになるだろう。誤っていたとしても、目的意識を持ってゲームをしていればどこかでミスをしていることに気付くはず。ひとつずつでも改善していけばいつの日か必ずや望む結果を得られるだろう。
気をつけたいのは、ミスを改善してもすなわち勝利には繋がらない点だ。カードゲームは一手ミスしたから負け、ひとつもミスしなかったから勝ちというような単純な処理ではなく、もっと複合的な要因によって勝敗が導かれる。上で述べた結果というのは、ミスを改善したことによって自身が思い描いた展開に瞬間的に持ち込めたことを指す。
ミスの改善の目的は、勝つ確率を上げることだ。そのゲームでは自分の意図が勝利として評価されずとも、淡々と続ければ以前の自分との差は勝率という形で浮き彫りになるだろう。
カードゲームは自己満足の繰り返しだと思っている。ランダム性が絡むゲームで、その結果による他者の評価は、よりどころにするにはあまりに脆い。自分で目標を設定し、自分で挑戦し、自分で評価しなければならない。自分に打ち勝つのは苦しさが伴うというのは誰しもが知っていることだろう。
娯楽なのだからもっとフラットに付き合うことももちろん可能だ。しかし、カードゲームは娯楽として楽しむには得られる快感が少ないのではないかと思う。
どこまででも掘り進められるような奥深さを持ったカードゲームだが、熱くなりすぎて周りが見えなくなることのないよう、適切な温度感、距離感を保ちながら付き合っていくことが重要だ。